en-gのスキーな毎日

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スキー昔話 11

《レルヒのことなど》
昨日は朝から雨で家庭菜園は休業。本棚から『スキーの原点を探る』(長岡忠一著 スキージャーナル刊)を引っ張り出してきて読んでいました。 レルヒが日本にスキーを広めた話が書かれています。著者の長岡忠一さんは日本のスキー普及に尽力した長岡外史のお孫さんに当たる方です。
テオドール・フォン・レルヒ(1869-1945)は、オーストリア=ハンガリー帝国の陸軍少佐です。来日したのは1910年。日本陸軍の視察のために交換将校として来日したのですが、マチアス・ツダルスキーの弟子でスキー大好き人間だったレルヒはスキーを携えて日本にやってきて、本来の仕事をほっぽらかしてスキーばっかしやっていたとこの本には書かれています。
オラはそういうタイプの人が大好きですね。
着任した彼は雪のある師団に行きたいと希望、高田師団に赴任することになります。当時師団長であった長岡忠一の祖父外史は「スキーは軍隊より民間に普及させるべき」と明治天皇に奏上したといいます。このことがその後スキーがスポーツとして素早く民間に普及していった一因ではないでしょうか。
会津には、現存する日本最古のスキー場である沼尻スキー場があります。1915年、鉱山で働く従業員の慰安のためのスキー大会をここで開いたことが後のこのスキー場の基になったと言われています(Wikipedia沼尻スキー場の項参照)。1915年と言えばレルヒ来日からわずか5年ですから、いかに早いスピードでわが国にスキーが普及していったのかが窺えます。
レルヒは1年あまり高田にいてその後旭川に移り、ここでもスキーを指導します。レルヒのスキーはリリエンフェルト式と言われる技術です。長い1本杖を使ってシュテム・ボーゲン、シュテム・ファーレン、テレマーク・ターンなどを教えたとあります。生徒は郵便局員、学校の先生、学生たち、中にはもちろん女子もいたといいますので、これもまた普及を早めた要因であったと思われます。
2本のストックを使って山を華麗に滑り降りるクリスチャニアという技術を編み出したハンネス・シュナイダーが、映画『スキーの驚異』を撮ったのは1920年ですからそこから遡ること10年前のことです。
1912年、レルヒは日本にアルペンスキーの礎となる大きな足跡を残して帰国します。後に高田市と直江津市が合併して出来た上越市はマチアス・ツダルスキーの故郷でレルヒがツダルスキーからスキーを教わったというリリエンフェルト市と姉妹都市提携をしています。そしてまた上越市には『日本スキー発祥記念館』があり、レルヒに纏わる貴重な資料が展示されてるそうです。
最後にレルヒの人となりなどを。若かった頃レルヒは富豪のお嬢様を好きになります。けれどお嬢様は別の男と結婚してしまいます。彼女を思い続け独身を続けていたレルヒは、その後離婚した彼女と53歳で結婚します。実に30年の時を経て恋を実らせたのです。うらやましいっちゃうらやましいです。てゆーか頑固一徹星一徹な人だったのかもしれません。
とゆーことで、ワタクシ明日は月山に行きます。晴れるといいな。
※『スキーの原点を探る』(長岡忠一著 スキージャーナル刊)、『上越市のホームページ』、『Wikipedia』等を参考にしました。